Blogを斬る,おまけ



2016.03.12
「日本軍「慰安婦」問題=被害者不在の「合意」は「解決」ではない!〜日韓外相会談・朴裕河 問題を批判する〜」講演会参加レポート を斬る

 2016.03.12

 引用元URL → http://fightforjustice.info/?p=4267 ( 魚拓 )

 このページは、webサイト『Fight for Justice 日本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』 が開  設された2013年08月01日時点で存在しなかったページです。

 いつ追加されたのか?は、

 

 より、2016年03月05日 だそうです。


 以下、青色の文字がwebサイト『「日本軍「慰安婦」問題=被害者不在の「合意」は「解決」ではない! 〜日韓外相会談・朴裕河問題を批判する〜」講演会参加レポート』 からの“引用”、緑色の文字がweb サイト 『日朝国交「正常化」と植民地支配責任 朴裕河の記者会見における「反論」について』 からの “引用”です。


 能川元一さんに寄稿してもらいました。

 先に当サイトでも「関連イベント」として告知されていたとおり、
 2016年2月14日(日)に大阪市のPLP会館にて
 「 日本軍「慰安婦」問題=被害者不在の「合意」は「解決」ではない!
  〜日韓外相会談・朴裕河問題を批判する〜」 (主催:日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク)
 が開催され、鄭栄桓・明治学院大学准教授が講演者として登壇された。
 報告者は一聴衆として参加したので簡単に講演の様子を報告したい。
 なお報告者は所用のため講演後に会場を離れねばならなかったため、
 その後の質疑応答や団体アピールなどには立ち会っていない。
 また、当日配布された資料と私自身のメモおよび記憶に基づく報告であり、
 もし鄭栄桓さんの実際の発言との間に不一致などがあるとすれば、
 それは鄭栄桓さんや主催者ではなくひとえに報告者に責のあることである。

 会場にはほぼ満席と言ってよいほどの参加者が詰めかけ、
 この問題に関心を持つ市民の年末の日韓「合意」に対する関心(ないしは危機感)の高さを
 伺わせた。
 鄭栄桓さんの講演は
 まず昨年12月28日の日韓外相会談と
 朴裕河氏の著書『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版、2014年)との間に
 どのようなつながりがあるのか?という点についての解説から始まった。
 外相会談に至るまでの過程に朴裕河氏が関与していたわけでもないのに、
 この2つのテーマを結びつけることができるのはなぜか?
 鄭栄桓さんは日本の主流メディアがこの「合意」を強く支持するわけでも
 逆に激しく批判するわけでもなく、関心そのものが低調であることを指摘された。
 そして 「もうこの問題は終わったこと」 とでも言わんばかりの態度を醸成するのに貢献したのが、
 いわゆる 「リベラル」 なメディアや知識人から 『帝国の慰安婦』 が強い支持を集めているという
 現象なのだ、と。
 鄭栄桓さんによれば、『帝国の慰安婦』 を読み解くことにより明らかになってくるのは、
 「日本社会は『慰安婦』がどのような存在であって欲しいと望んでいるのか?」
 という日本社会の欲望にほかならない。

 では『帝国の慰安婦』とはどのような書物なのか。
 鄭栄桓さんはその基本的な主張(テーゼ)を5つにまとめている
 (報告者によって表現は簡略化されている)。

 (1) 「朝鮮人慰安婦」 は日本人の 「慰安婦」 と同様な 「帝国の慰安婦」 である
    ( さらにこれは 「帝国の慰安婦」 に期待された客観的役割についての主張と、
     日本兵に対して 「同志意識」 をもっていた 「朝鮮人慰安婦」 の主観的意識についての主張
     に分けることができる )

 (2) 主犯は 「慰安所」 業者であり、日本軍の責任は制度の 「発想」 と 「黙認」 に対するもののみ

 (3) 「性奴隷」 説批判 ( 行われたのは広義の 「売春」 )

 (4) 日本政府の法的責任は問えない

 (5) 戦後の日本政府は実質的な謝罪と補償を行った

 講演の中盤ではこのようなテーゼを導き出すに至る 『帝国の慰安婦 』の方法の
 不備への具体的な批判が展開された。
 同書が資料の強引、恣意的な解釈などの問題点をはらんでしまうのは、
 本来ならば史料にもとづいてこれらのテーゼが論証されねばならないはずなのに、
 この本ではテーゼを前提としてそれに合致するように史料が解釈されてしまうからである、という
 指摘は報告者には大変説得力のあるものに思えた。
 『帝国の慰安婦』 の方法上の問題点の詳細については、いずれ主催者から
 なんらかのかたちで発表されるであろう講演の記録か、まもなく刊行予定の
 鄭栄桓さんの著書をお待ちいただきたい。
 あるいは鄭栄桓さんのブログ 「日朝国交『正常化』と植民地支配責任」 の記事のうち、
 まずは 「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について」 (1)〜(7)を参照されたい。
 ここでは、『帝国の慰安婦』という本とのつきあい方について鄭栄桓さんが示された、
 実に明快な整理についてご紹介しておきたい。

   『帝国の慰安婦』 の本文は次のような一節で始まっている。

   「慰安婦」 とは一体誰のことだろうか。
   韓国にとって慰安婦とはまずは 〈日本軍に強制連行された朝鮮人の無垢な少女たち〉 である。
   しかし慰安婦に対する謝罪と補償をめぐる問題 ― いわゆる 「慰安婦問題」 を
   なかったものとする否定者たちは、
   〈 慰安婦とは自分から軍について歩いた、ただの売春婦 〉
   と考えている。
   そしてこの二十余年間、日韓の人々はその両方の記憶をめぐって激しく対立してきた。

   ( 『帝国の慰安婦』 23ページ )

 ここではニセの二項対立が提示されていることを鄭栄桓さんは指摘する。
 「韓国」 に対置されるのは 「日本」 ではなくなぜか 「日本の否定者」 である。
 しかもその 「日本の否定者」 の主張は極めて狭く理解されている。
 ここで抜け落ちているのは 「慰安婦」 たちの境遇が悲惨であったことはあえて否定せず、
 しかし日本軍・日本政府の責任は認めようとしないような歴史修正主義者たちの主張
 ? 鄭栄桓さんが永井和・京都大学教授の表現を借りて 「日本軍無実論」 と評するものである。
 このニセの二項対立をうけいれて 『帝国の慰安婦』 を読んでしまうと、この本があたかも
 日本の歴史修正主義にも反対しているかのような印象をもってしまうことになるが、
 実際には 『帝国の慰安婦』 の主張は事実上の 「日本無罪論」 にほかならない。
 『正論』 や 『WiLL』 といった論壇誌上で展開されている日本軍 「慰安婦」 問題否認論を
 実際に読んでいれば、「日本の否定者」 たちの主張を

   〈 慰安婦とは自分から軍について歩いた、ただの売春婦 〉

 と要約してしまうのが誤りであることは明らかだ。

 以上のような 「ニセの二項対立」 についての指摘は、『帝国の慰安婦』 を正しく読むための
 重要な鍵であるとともに、
 「 なぜこの本がいわゆるリベラルなメディア、知識人にも高く評価されてしまうのか?」
 を理解するうえでも重要な鍵を与えてくれると思われ、報告者は非常に感銘を受けた。

 『帝国の慰安婦』 によってあたかも歴史修正主義的ではないかのように偽装された
 「日本無罪論」 は、昨年末の日韓 「合意」 における日本政府の立場でもある。
 岸田外相の発表が
 「 多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた 」
 としながらも、その傷つけた主体が誰であるかについては 「当時の軍の関与の下に」 という
 あいまいな表現しか用いていなかったことを思い出していただきたい。
 このような 「合意」 に対して主要メディア、主要政党から強い反対が出てこないという現状と、
 『帝国の慰安婦』 に対してこの社会が与えた高い評価とはたしかに密接に結びついているように
 思われる。
 「朴裕河現象」 を問いなおすことはいまの日本社会を問いなおすことにほかならない、という
 思いを新たにして報告者は会場を後にした。
 このような有意義な集会を企画・実行してくださった主催者にお礼申し上げたい。

 

 まぁ、異議あり!と言うよりは、

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    |        |

 でしょうかね。

 この寄稿者の知能に問題があって、講演の内容をきちんと伝えることが出来ていないという可能性が ありますが、少なくともこの寄稿を読む限り、

   これの何処が 『帝国の慰安婦』 に対する反駁なの?

 という疑問しか湧いてきません。

 実は、 『帝国の慰安婦』 に関しては、寄稿者が

   あるいは鄭栄桓さんのブログ 「日朝国交『正常化』と植民地支配責任」 の記事のうち、
   まずは 「朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について」 (1)〜(7)を参照されたい。

 と書いておられる通り、寄稿者は、そういうブログを熟読して得た知識を前提として、講演を聞いてい ます。 だから、予備知識がない者には、この寄稿文を読んでも、何の事やらさっぱり分からないのは 当然です。

 で。

 「 『帝国の慰安婦』 に異議あり!」ってブログの内容なんですが。

 ・・・ まぁ、期待通りに酷いです。

   日朝国交「正常化」と植民地支配責任
   朴裕河の記者会見における「反論」について
   http://kscykscy.exblog.jp/25149779/
   > 朴裕河『帝国の慰安婦』の「方法」について
   >
   > 元日本軍 「慰安婦」 9人が 『帝国の慰安婦』 の著者・朴裕河氏を
   > 名誉毀損で告訴したという。
   > かつて触れた日本軍と 「慰安婦」 の 「同志的な関係」 という記述が、
   > 問題となっているとのことである。
   > まだ断片的な情報しか伝わっていないため
   > 訴訟についての判断をできる段階にはない。
   > ただ私自身、この本の内容には看過し得ない問題があると考えていたこともあり、
   > 以前の記事では部分的に触れるに留まった 『帝国の慰安婦』 の問題点について、
   > 以下に若干のコメントをしておきたい。
   >
   > 率直にいってこの本は決して読みやすい本ではない。
   > ただこれは分析が細部にわたっているとか、複雑に入り組んだ論理展開をしているからという
   > わけではなく、検討の対象が曖昧なうえ、用いられる概念が理解可能なかたちで
   > 定義されていないためである ( 例えば 「国民動員」 という語の特殊な使用 )。
   > この本で朴は、朝鮮人日本軍 「慰安婦」 の置かれた状況は多様であったと繰返し説く一方で、
   > 自らは個別の証言や伝聞、文学作品の描写をパッチワークのようにつなぎ合わせつつ
   > 推測も交えて 「彼女たちは…」 と一般的に論じており、その驚くべき内容もさることながら、
   > 方法という側面からみても無視できない問題を抱えている。
   > 特に朝鮮人 「慰安婦」 と日本軍を 「同志」 と記述した箇所は、
   > こうした問題点が最も明確にあらわれている部分の一つといえる。
   >
   > この本の基本的な視角は、朝鮮人・台湾人 「慰安婦」 は中国やインドネシアなど
   > 占領地の 「慰安婦」 とは異なる、というところにある。 朴は次のように指摘する。
   >
   >  「 職業軍人であったある人物は、中国人などより朝鮮人慰安婦をより多く募集したのは
   >   彼女らが自ら知ることになった事実を
   >   「 敵に通報したり軍事情報を流すことが無か 」
   >   ( 121頁 [ 千田夏光 『従軍慰安婦 ―“声なき女”八万人の告発』:引用者注 ] )
   >   ったからだと語る。
   >   「朝鮮人慰安婦」 はこのように中国やインドネシアのような
   >   占領地/戦闘地の女性らと区別される存在だった。
   >   いわば日本軍との基本的な関係において決定的に異なっていた。
   >   植民地となった朝鮮と台湾の慰安婦はどこまでも 「準日本人」 として帝国の一員であり
   >   ( もちろん、実際には決して 「日本人」 になりえない差別があった )、
   >   軍人たちの戦争遂行を助ける関係であった。
   >   それが 「朝鮮人慰安婦」 の基本役割であった。」
   >
   >  ( 『帝国の慰安婦』 60頁。 強調は引用者、以下同。)
   >
   > 朴が 「帝国の慰安婦」 と題した理由はここにある。
   > 「日本軍との基本的な関係において決定的に異なっていた」 がため、検討する対象を
   > 日本軍 「慰安婦」 問題全体ではなく、大日本帝国の 「臣民」 であった
   > 日本人・朝鮮人・台湾人 「慰安婦」 ―― すなわち 「帝国の慰安婦」 に限定したのである。
   > もちろん、朝鮮と中国の 「慰安婦」 としてのあり方に差異があるという主張自体は
   > 取り立てて珍しいものではない。
   > すでに数多くの研究が日本軍の占領した諸地域における 「慰安婦」 徴集や
   > 性暴力の現れ方の特徴について論じている。
   > だがこの本の特徴は、そうした差異の捉え方にある。
   >
   > 上の引用文にもあるように、朴は 「帝国の慰安婦」 は 「日本軍との基本的な関係」 において
   > 他の日本軍 「慰安婦」 たちと異なっていた、と主張する。
   > この主題が論じられているのは
   > 「第二章 慰安所にて ―― 風化される記憶たち」
   > の
   > 「1.日本軍と朝鮮人慰安婦 ―― 地獄のなかの平和、軍需品としての同志」
   > である。
   > この節では、千田夏光 『従軍慰安婦 ― “声なき女”八万人の告発』、
   > 田村泰次郎の小説 「春婦伝」、古山高麗男の小説 「蟻の自由」、
   > そして韓国挺身隊問題協議会が編んだ証言集を用いて議論が展開される。
   > ここで 「帝国の慰安婦」 と日本軍の関係が、他の 「慰安婦」 と異なる
   > いかなる特徴があったと論じられているのかについて、二つの主張をとりあげて
   > 検討してみよう。
   >
   > (1) 「帝国の慰安婦」 たちは、過酷な生活を生き抜くため、
   >    国家が求めた肉体的・精神的 「慰安」者 としての役割を受容した
   >
   > 千田の本に登場する、ある日本軍兵士の日本人慰安婦に関する証言
   > ―― 「立派に死んでください!」 と言われたという回顧 ―― に触れながら、
   > 朴は日本国家は 「帝国の慰安婦」 に日本軍人の身体的 「慰安」 に加え、
   > 精神的「慰安」も要求したが、こうした
   > 「 精神的 「慰安」 者としての役割 ―― 自己の存在に対する(多少無理な)矜持が
   >  彼女たちが直面した過酷な生活を耐えぬく力になることもありえただろうことは、
   >  充分に想像できることだ 」 ( 61頁 )
   > とし、次のように論じる。
   >
   >  「 もちろん、「朝鮮人日本軍」 がそうであったように、「愛国」 の対象が朝鮮ではなく
   >   「日本」 であったという点で、「朝鮮人慰安婦」 たちを日本軍[ママ→人?]慰安婦と
   >   同様に扱うことはできない。
   >   しかし同時に、そうしたジレンマを忘れ、目の前に与えられた 「嘘の愛国」 と 「慰安」 に
   >   没頭することは、彼女らにとって一つの選択でありえたという事実を無視することは
   >   できない。
   >   日本軍との恋愛や結婚が可能であったことは、こうしたジレンマを抱くことを放棄した
   >   者たちの選択であったと見ねばならない。
   >   あるいは幼ければ幼いほど日本人意識が強かったであろうから、ジレンマとしてすら
   >   考えなかった者たちが遥かに多かったかもしれない。」 ( 62頁 )
   >
   > また同じく千田の本にあらわれる、ある業者の証言
   > ―― 日本人慰安婦のなかには借金を返しても仕事をやめようとしない者もいた、
   >    それはこんな身体でも軍人のため、国家のために身体を捧げることができると
   >    彼女たちが喜んだからだ、と答えた記録 ――
   > を引用し、次のような解釈を提示する。
   >
   >  「 もちろんこれは日本人慰安婦の場合だ。
   >   だが朝鮮人慰安婦もまた 「日本帝国の慰安婦」 であった以上、
   >   基本的な関係は同じであったとみなければならない。
   >   そうでなくては敗戦前後に慰安婦たちが負傷兵の看護もし、洗濯や裁縫もした背景を
   >   理解できない。」 ( 62頁 )
   >
   > つまり、日本人 「慰安婦」 と同様、「帝国の慰安婦」 であった朝鮮人 「慰安婦」 も、
   > 兵士の精神的「慰安」を行うという役割を引き受け、そこに苦しい生活耐えるなかでの
   > 「矜持」 を見出していた、という。
   >
   > 次に移ろう。
   >
   > (2) 「帝国の慰安婦」 たちのなかには日本兵と 「愛」 と 「同志意識」 で結ばれていた者もいた
   >
   > これは以前にも触れたことがあるが、ある元 「慰安婦」 が、一人の日本兵のことを
   > 忘れられないと語った証言に触れ、朴はなぜそのようなことが起こったのかについて
   > 以下のように論じている。
   >
   >  「 もちろんこうした記憶たちはどこまでも付随的な記憶であるほかない。
   >   仮に世話をされ、愛し、心を許した存在がいたとしても、
   >   慰安婦たちにとって慰安所とは抜け出したい場所であるほかないから。
   >   だとしても、そこでこういった愛と平和が可能であったことは事実であり、
   >   それは朝鮮人慰安婦と日本軍の関係が基本的には同志的な関係だったからである。
   >   問題は彼女たちにとっては大事だった記憶の痕跡を、彼女たち自身が
   >   「すべて捨て去」 ったことである。
   >   「それを置いておけば問題になるかもしれない」 という言葉は、
   >   そうした事実を隠蔽しようとしたのが、彼女たち自身であったことを示す言葉でもある。
   >   そしてわれわれは解放以後ずっと、そのように 「記憶」 を消去させて生きてきた 」
   >  ( 67頁 )
   >
   >
   > 続けて朴は、古山高麗雄の小説 「蟻の自由」 にあらわれる 「慰安婦」 の描写を紹介しながら、
   > 同様に以下のように指摘する。
   >
   >  「 ここには騙されてきたと言いながらも
   >   「軍人たちが銃弾を撃ち込まれること」 と 「慰安婦になること」 を、
   >   ただ運が悪かったとみなし軍人を恨まない慰安婦がいる。
   >   彼女がこのように語ることができるのは、彼女がすでに植民地となって長い土地で育ち、
   >   自らを 「日本」 の一員と信じたためであろう。
   >   いわば彼女の目の前にいる男性は、どこまでも同族としての 「軍人」 であるのみで、
   >   敵国としての 「日本軍」 ではない。
   >   彼女が日本軍を加害者ではなく、自らと同様の不幸な 「運」 を持つ 「被害者」 とみて
   >   共感と憐憫を示すことが出来たのも、彼女にそうした同志意識があったからだ。」
   >  ( 75頁 )
   >
   > さて、説明は不要かもしれないが、一読すればわかるように
   > これら二つの 「日本軍との基本的な関係」 を論じる際の朴の手法には深刻な問題がある。
   >
   > まず、(1) で朴の挙げる証言は、いずれも日本軍兵士や日本人業者が語った、
   > 日本人 「慰安婦」 についての証言であり、そもそも朝鮮人 「慰安婦」 は全く登場しない。
   > 兵士や業者という 「利用者」 「管理者」 の視線からなされたことを
   > 踏まえた史料の検証をおこなわずに、これらを日本人 「慰安婦」 の実態、しかも 「意識」 を
   > 示す証言として用いることは問題であろう。
   > この日本人 「慰安婦」 の発言自体、一般化しうるものなのかも確かではない。
   > しかも、それをただちに 「帝国の慰安婦」 であったから 「基本的な関係は同じ」 として、
   > 朝鮮人 「慰安婦」 にあてはめるに至っては完くの飛躍というほかない。
   > (1) に関する朴の叙述は、このように二重の意味で問題があるのである。
   >
   > (2) も同様である。日本軍と 「同志的な関係」 にあった、「同志意識があった」 という表現は
   > 証言や小説には登場しない朴の言葉であり、解釈である。
   > 言うまでもないことだが、ある個人が日本兵の思い出を語ることと、
   > 「朝鮮人慰安婦」 と日本軍が 「同志的な関係」 にあったという解釈の間には、
   > はるか遠い距離がある。 証言の固有性があまりに軽視されているのだ。
   > しかも、後段に至っては、(1) で触れた千田の集めた証言の場合と同じく、
   > 古山の視点から描かれた小説の描写を、あたかも 「彼女」 の意識を示す材料であるかの
   > ように用いている。
   > 古山の小説から朝鮮人 「慰安婦」 としての 「彼女」 の意識、
   > しかも日本軍との 「同志意識」 なるものの存在を論じるという方法自体が、
   > すでに破綻しているのである。
   >
   > 朴は
   > 「 愛と平和と同志がいたとしても 「慰安所」 が地獄のような体験であった事実は変らない。
   >  それはいかなる名誉と称賛が付き従うとしても
   >  戦争が地獄でしかありえないことと同様である 」 ( 76頁 )
   > と断りを入れているが、全く根拠を示さぬまま、「同志がいた」 という極めて重大な
   > 日本軍 「慰安婦」 の自己認識に関する推測を呈示したことにこそ、最大の問題がある
   > といえる。
   >
   > 朴はこの節での検討をふまえて、韓国社会や支援者の認識を以下のように批判する。
   >
   > 「 この間、慰安婦たちはただ自身らが経験したことを淡々と語ってきた。
   >  しかしその話を聞く者たちは自身が聞きたい話だけをよりわけて聞いてきたわけだ。
   >  それは慰安婦問題を否認する者であれ、支援する者であれ、異なるところはない。
   >  われわれのなかに位置を占めた日本軍と朝鮮人慰安婦のイメージは
   >  証言の一方の面に過ぎない。
   >  こうした意味ではわれわれみながこの人びとの体験を歪曲するのに加担してきたわけだ。
   >  そこでの慰安婦はもはやありのままの慰安婦ではない。
   >  彼女たちの記憶を聞く者が願う 「新たな記憶」 であるのみである。」 ( 80頁 )
   >
   > 「 彼女たちはこうした記憶を特別に強調しはしなかった。
   >  モノのみならず記憶までも、一度発話した後には、われわれの社会では 「捨てられ」 てきた。
   >  いわば彼女たちが自身の大切な記憶を捨てることは、彼女ら自身が選択したことではない。
   >  「問題」 になるであろうと考えられた 「社会」 の抑圧である。
   >  それは彼女の記憶たちが 「被害者としての朝鮮」 に亀裂をもたらすことを慮る
   >  無意識的な了解事項であったといえる。
   >  しかし慰安所の苦痛を忘れさせてくれたかもしれない、また異なる記憶たちを無化させ、
   >  忘却させたことは、彼女たちにとってもう一つの暴力ではなかったか。」 ( 68頁 )
   >
   > しかし、これまでの検討からみるに、むしろ 「新たな記憶」 を創り出しているのは
   > 朴自身ではないかと思わざるをえない。
   > 仮に 「異なる記憶」 にこだわるというのなら、証言と証言者の固有性に徹底的にこだわり、
   > 安易に 「彼女たちは…」 「朝鮮人慰安婦は…」 と一般化すべきではないはずである。
   > 証言や資料のつぎはぎと、そのつぎはぎされた資料群からすらも導きだせない
   > 根拠なき解釈
   > ―― しかも 元「慰安婦」 たちが日本軍に 「同志意識」 を持っていたという重大な解釈 ――
   > を展開することこそが、「一つの暴力」 なのではないだろうか。
   >
   > ( 鄭栄桓 )

 私は、「日本が悪い」という結論に向かって論が展開する 『帝国の慰安婦』 を支持しませんが、それ でも、このブログはムチャクチャだ。

 被害者である慰安婦と加害者である日本兵の間に、連帯感や恋愛感情が湧くのはアリエナイ?

 いやいや、ありえるでしょう。

 “ストックホルム症候群”、名前だけでも聞いたことがないのかな?

   https://ja.wikipedia.org/wiki/ストックホルム症候群

   https://ja.wikipedia.org/wiki/ストックホルム症候群 - 1.概要

   > 1973年8月に発生したストックホルムでの銀行強盗人質立てこもり事件
   > (ノルマルム広場強盗事件)において、人質解放後の捜査で、犯人が寝ている間に
   > 人質が警察に銃を向けるなど、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていた
   > ことが判明した。
   > また、解放後も人質が犯人をかばい警察に非協力的な証言を行ったことなどから
   > 名付けられた。
   >
   > この問題を調査したフランク・オックバーグ(英語版) 博士は、
   > FBIとイギリス警察に、次のような報告を行った[1]。
   > 「 人は、突然に事件に巻き込まれて、人質となる。 そして、死ぬかもしれないと覚悟する。
   >  犯人の許可が無ければ、飲食も、トイレも、会話もできない状態になる。
   >  犯人から食べ物をもらったり、トイレに行く許可をもらったりする。
   >  そして、犯人の小さな親切に対して、感謝の念が生じる。
   >  犯人に対して、好意的な印象を持つようになる。 犯人も、人質に対する見方を変える。」
   >
   > 犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、
   > 犯人達の心情や事件を起こさざるを得ない理由を聞くとそれに同情したりして、
   > 人質が犯人に信頼や愛情を感じるようになる。
   > また 「警察が突入すれば人質は全員殺害する」 となれば、
   > 人質は警察が突入すると身の危険が生じるので突入を望まない。
   > ゆえに人質を保護する側にある警察を敵視する心理に陥る。
   >
   > オーストリア少女監禁事件の被害者ナターシャ・カンプッシュ(英語版 )は、
   > 2010年のガーディアンのインタビューで次のように述べている[1]。
   > 「 被害者に、ストックホルム症候群という病名を付けることには反対する。
   >  これは病気ではなく、特殊な状況に陥った時の合理的な判断に由来する状態である。
   >  自分を誘拐した犯人の主張に、自分を適合させるのは、むしろ当然である。
   >  共感やコミュニケーションを行って、犯罪行為に正当性を見い出そうとするのは、
   >  病気ではなく、生き残るための当然の戦略である 」。

 つまり、仮に慰安婦が日本人兵士に対して 「同士意識」 を抱くことがあったとしても、それがストック ホルム症候群という心理作用に因るモノだとしたら、『帝国の慰安婦』 は何ら日本軍慰安婦問題に対 する弁護にならない。

 むしろ、

   ストックホルム症候群に陥る程に、日帝は慰安婦を極限状態に置いていた。
   これは許されざる戦争犯罪である。

 と主張するべきだったろう。

 しかも、

 特定の個人について書かれた資料を元に、当時の慰安婦全体の心理状態を推し測るのは、不当で あるとしつつも、一方で

   仮に 「異なる記憶」 にこだわるというのなら、証言と証言者の固有性に徹底的にこだわり、
   安易に 「彼女たちは…」 「朝鮮人慰安婦は…」 と一般化すべきではないはずである。

 証言は不可侵に正しいから、個々の証言を盲信することだけが真実へ至る道だと説く。

 しかし、その主張は、こと慰安婦問題に限って言えば自殺行為である。 まさか韓国人の法廷に於け る偽証率の高さを知らないワケではあるまい。

   2015年07月08日 ちゃぬの裏韓国日記
   【嘘つき大国】 韓国は偽証が日本の671倍、詐欺が17倍、誣告が4151倍
   http://ameblo.jp/chanu1/entry-12047999185.html

 そして、自称元従軍慰安婦婆サマの証言は検証するとこうなる。

   従軍慰安婦問題を考える - 「元・従軍慰安婦」証言者一覧 <韓国>
   http://sikoken.blog.shinobi.jp/未選択/「元・従軍慰安婦」証言者一覧 <韓国>

 ほとんどが、「これが事実であったと信じるのは無理」 & 「最初の証言では任意または親に売られた と言っていた」 という証言ばかりです。

 これで、
 「 『帝国の慰安婦』 に信憑性は無いが、自称元従軍慰安婦の婆サマの証言は真実 」
 は無理です。 

 むしろ、自称元従軍慰安婦の証言がグダグダだから、仕方なく自称元従軍慰安婦の証言以外の資 料を使って、日本軍の悪行を創り出そうと努力した朴裕河教授は、本来ならば反日韓国人の鑑として 賞賛されるべきだと思いますよ。

 てゆーか。

 朴裕河教授の主張は、慰安婦の強制性に日本が関与した証拠は何も無いけど、それでも慰安婦 は、慰安所で酷い目に遭ったのだから、日本政府は元慰安婦の婆サマたちに謝罪して賠償しろ、で す。

 これは、吉見義明氏の主張と一致していると思ったんだけど。

 わざわざ否定する記事が、吉見義明氏が重鎮的立場で関わっているwebサイト『Fight for Justice 日 本軍「慰安婦」――忘却への抵抗・未来の責任』に載ったってことは、あの吉見義明氏は、
 「 日本軍が慰安婦問題の強制性に関与した証拠は、日本政府が隠しているに違いない」
 てマダ本気で考えているのかな?

 だとしたら、それはそれで ( 資料を何も理解出来ない奴が、慰安婦問題のリーダーをやっているの が怖いという意味で ) 恐ろしい話ですね。


 それと、最後に

   『正論』 や 『WiLL』 といった論壇誌上で展開されている日本軍 「慰安婦」 問題否認論を
   実際に読んでいれば、「日本の否定者」 たちの主張を

     〈 慰安婦とは自分から軍について歩いた、ただの売春婦 〉

   と要約してしまうのが誤りであることは明らかだ。

 って、なにそれ。

 まぁ、

   自分から軍について歩いた

 が誤りだというなら同意するよ。

 幾ら装備を抱えているとはいえ、鍛えられた兵士の行軍に、か弱い女性が徒歩で付いて行くというの は無理じゃなくても可哀想だ。 常識的に考えれば、慰安所の女衒が用意した車両か、あるいは軍の 車輌に乗せて貰って移動したと考えるべきだろう。

 だとしても

     〈 慰安婦とは自分から軍について行った、ただの売春婦 〉

 であることは揺らがない。

 これが誤りであるというなら、日本人ではない鄭栄桓氏が 『正論』 や 『WiLL』 といった論壇誌を読ん で理解したという 「 日本の否定者たちが主張している 『慰安婦の真実の姿』 」 に付いて詳しい解説を お願いしたいものだと思う。


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